たましい とか いのち とか。

 

今朝の大蔵海岸の景色です。

 

自分の身体をその場に運んで、ダイレクトに感じることがやっぱりいちばん。空の広さ、去りゆく月の静けさ、昇ってくる太陽のエネルギー、刻々とカタチを変える雲を見ていると、ただただ感動します。

 

それらは「たましい」「いのち」で感じているのです。

 

「たましい」とか「いのち」という言葉を大げさな言葉として感じたり、精神世界のはなしに対して眉をひそめる気持ちもわからなくもありません。それは、仕方のないことです。何故なら、私たちは学校教育や社会から、一般的な知識や情報を受け取って育ちましたが、リアリティをもって自分のいのちと向き合ったり、たましいレベルで何かに感じ入ったりすることを、あまり経験することがないからです。

 

かく言う私もそのひとりでした。身体のためもありましたが、心のためにヨーガを始めたはずでしたが、ポーズや哲学を無心に追いかけていた頃は、アタマで理解した「つもり」になっていただけでした。

 

そして、「たましい」や「いのち」はもちろん大切だとはわかっているけれど、他者に話をするには「宗教的だと思われやしないか」という不安の方が先に立っていました。

 

でも、それは【変に】宗教色の強いヨーガがあることが問題なのです。

 

ごく普通の人たちが、心や精神のことを自然に話せる世の中ならば、ひとを虐めたり、自らいのちを絶つひとも少なくなって、もっと世界は健全になるでしょう。

 

目に見えないけれど、大切なことについて、誰も積極的に教えてくれる人がいないのが実情です。だから、心を病んだとき、頼るところを間違うと、傷口にさらに塩を塗るようなことになってしまうのです。そういうケースには胸が痛みますし、腹立たしく感じています。だから、私は変にスピリチュアル過ぎる、現実離れしたタイプのものは、本当のヨーガだとは思っていません。

 

 

 

お正月には、どこかの神社にお参りするひとは多いと思います。それに対して抵抗はありませんよね。あなたが手を合わせるとき、一体何に対して、祈ったり、感謝をしているのですか。それは、やっぱり、人知を超えた大きな力があることを感じているからではないでしょうか。

 

日本人は、もともと自然の中に神さま、仏さまのような存在を感じて、謙虚に敬いの気持ちを持っていたのです。その気持ちは「いのちの真ん中」「たましい」から生じているのではないですか? そして、手を合わせて「そのもの」と「自分」が共鳴できるのは、自分の中にも同質のものが備わっているからなのです。(ただ、そうは言っても、私自身は自然に対する謙虚さは忘れずにいたいと思っています)

 

ヨーガは特定の宗教ではありません。もちろん、何かを信じておられる方がいれば、そのことも含んで尊重されるべきです。しかし、

 

ヨーガはヨーガであり、人が人として、生きていく上で、自然に楽になっていけるものとしか言いようがありません。

 

私はヨーガを社会的にもっと正しく認知してもらって、学校や社会でラジオ体操と同じように広く伝えられたらと願っています。

 

どなたか、お力を貸してもらえると嬉しいです。

 

あかしSDGs事業計画案 長押しして開く↓

https://www.city.akashi.lg.jp/seisaku/sdgspartners/documents/asagirikatatsumuri_yoshiki2.pdf

 

 

(8月6日 広島平和記念日を前にして)