祈るということ

 

高野山の奥の院を訪れました。

 

高野山の信仰の中心であり、弘法大師(空海)さまがご入定されている聖地です。

 

入り口から奥までの道のりは約2キロ。おおよそ20万基を超える墓石や慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。

 

それらは、青々とした苔に柔らかく包み込まれ、まわりの自然と完全に調和しています。朝露をたっぷり含んだ苔は瑞々しく、「生」あるものとして呼吸をしており、墓石や慰霊碑に生命を与えているように私には見えました。

 

誰もが知っているような著名な大名も、この地に縁のある庶民のお墓も入り混じって在ることが、私をほっとさせてくれました。

 

とにかく、20万基という墓石や慰霊碑です。ひじょうにたくさんの御霊が眠っておられる場なので、ただ静かに深呼吸しながら、奥へ奥へと歩みを進めていきました。

 

大師さまは1200年間、一番奥にある御廟に肉身をこの世にとどめ、瞑想を続けておられるそうです。

  

生物学的に1200年生命を保ち続けることは不可能なわけですが、こちらでは今でも大師さまが瞑想を続けていらっしゃるとして、1日2回お食事が運ばれます。

 

瞑想を今でも続けられるその意味とは、なんなのか。

 

ひとの祈りとは、なんなのか。

 

そこにまだお大師さまが存在するものとして、場を守り続ける人々の働きそのものや、そうすることによって目には見えなくても「起きてくるもの」とは。

 

わたしの小さなアタマでは考えきれない、大きな宇宙観・愛・エネルギーをハートで受け取って帰ってきました。

 

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ひとはハートの前で手を合わせます。

 

その瞬間、間違いなく正直な自分がいるでしょう。口にしなくてもハートで感じていることは響きとなって、必ずまわりに拡がります。

 

祈りを捧げるとき、自分を含め、生きとし生けるものすべてのものたちに祈るということが、どういうことなのか教わった気がしています。

 

これからの瞑想は自分の平穏のためだけでなく、自分を含む世界全体のためのものになるでしょう。現実的に、なかなかそう思いにくいときがあったとしても。

 

これからもヨーガをして、心身を整えることで可能なものになることを信じています。なぜなら、ヨーガの真髄は古から伝わる、信頼に値する教えだからです。

 

 

朝霧カタツムリ