役割
ヨガやアーユルヴェーダを学ぶと「ダルマ」という言葉に出逢います。
ここではみなさんにわかりやすく「役割」という言葉に置き換えて話をしましょう。
この世に存在するものにはみな役割があります。
わたしたちは人生というステージを生きていく上で、家族、地域社会、学校、職場などの一員として存在しています。そして、自分が属する輪の中で役割を与えられたり、自らも必要性を感じたりして、その勤めを果たそうとします。
ただ、「ダルマ」に自分自身の喜びを伴って、行為を行えるかどうかが大切なポイントです。
誰かから与えられた仕事を義務感に苛まれながらこなしたり、自分の感情を押し殺して役割を果たすということは真のダルマではありません。
ヨガやアーユルヴェーダでいう「ダルマ」とは、自分自身の生命とは一体何であるかを知ったうえで、「自分にしかない天分ともいうべき役割」を担っていくことにあります。
「天分」なんて表現すると、まるで夢を叶えた、ごく一部の人のサクセスストーリーのように感じるかもしれませんが、SNSの上位ランキングに並ぶような価値基準ではなく、他の誰でもない、あなた自身が喜びをもって行える継続性のあることなら、何でもよいのです。
例えばですが、赤ちゃんを産み育てることは、お母さんとしての素晴らしいダルマです。もしくは、赤ちゃんと過ごせる時間を大切にしながら、ある部分は子育てのプロに任せて自分が取り組みたい仕事に情熱を捧げることもそのひとにとってはダルマでしょう。
裁縫が得意で誰かのために洋服を作ることに喜びを感じたり、車の修理が三度のごはんより好きで夢中になれたり、船に乗って魚を釣り上げることを自分の仕事として生き甲斐にしている人もいます。
社会の一員として、わたしたちはいくつかの役割を果たしていますが、そのなかでも誰かに認められるために役割を果たすのではなく、自分自身がこの世の大きな営みの一部として機能し、喜びをもって取り組めることは天分でしょう。
もっと深いことをお話しするとすれば、わたしたち自身の生命の健康を守り、生きることを大切にすること自体がダルマです。わたしたちひとりひとりが大きな世界の一部。一部であるあなたを大切にすることは全体にも良い影響を及ぼすのです。
カタツムリ自身はわたしの生命を生き、そのなかでヨガやアーユルヴェーダをみなさんにお伝えするのがダルマだと思っています。
さて、あなた自身はいかがでしょう。見つかっていてもいなくても、あなた自身のおはなしを聞かせてください。ゆっくりと楽しんでお話ししましょう。
2021.4.7. 朝霧公園の桜の下で。
ひとつの灯りのようなもの
ヨガの先生ってどんな存在なのかな。
あるひとにとっては「身体の健康法を教えてくれる人」
あるひとにとっては「心の在り方を示してくれる人」
ひとによって、ヨガの先生に対して感じることはそれぞれでしょう。
実際、わたし自身、目の前に座って下さる方々に合わせてヨガをお伝えてしているので、言葉も練習内容もそれぞれです。
(けれども、たどり着こうとする場所はおなじです)
わたしとしては、ただの「健康体操を教えてくれる人」にとどまらず、「心のはなしをしてくれる人」にもとどまらず、もっと包括的な意味での人生の「灯り」のような存在でありたいと活動しています。
そのひとにとっての「楽」は何なのかを、お互いのあいだで交わすすべてのやり取りを通して、いっしょに探していくように。
だから、実はこのホームページの活動Menuのなかにある「枠組み」もほんの一部にしかすぎません。
なぜなら、ひとというひとはみんなそれぞれだからです。実際には「枠組み」は提案の一部に過ぎず、結局はみなさんのオーダーメイドスタイルになっています。
実のところ、その点が非常に重要なのです。本当のヨガは100人いれば100通り。ひとりひとりの生きている人生背景はみんな違って当たり前です。
年齢・性別・体格・健康状態・文化的背景などを考慮し、そのひとに合った方法でなければ、そのひとの自然に逆らった状態となり、無理が生じるのです。
「わたしが楽になれる方法を見つけたい」「わたしの人生の花を咲かせたい」
そういうかたはぜひ連絡をください。その誰かさんとお会いできることを心から楽しみにしています。
2021.3.3
わたしのチャレンジ
今年に入って、わたしにしかできないチャレンジをしています。
それは、息子たちに本当の意味での愛を渡すこと。
今のわたしが思うに、彼らが幼少期・青春期のとき、わたしは良い親ではありませんでした。
自分なりに一生懸命だったけれど、ヨガやアーユルヴェーダの学びを通していのちの本質を知ると、かつての愛の渡し方は自分勝手な押し付けであったと気づいたのです。
だからこそ、彼らは混乱しただろうし、淋しい思いをしただろうし、心の叫びをぶつけてきたんだと思います。
「子育ては親育て」という言葉を聞いたことがありますが、いつまでたっても親ははじめてのことに動揺したり、決断に悩んだりするものではあります。
でも、今はその言葉に逃げたくはなくて、彼らに対する言動が純粋な愛のみならず、ときに世間体を気にしたものであったり、自分たちの保身のためであったりしたのだということをちゃんと受け止めていこうと思っています。
そういうことを彼らのいのちの知性は見破り、わたしたちに突き付けてくれたんだと今では心から感謝もしています。
わたしが想像する以上に彼らはもがき苦しみながらも、自分の力で生きようとしてくれたし、今もそうしようとしてくれています。
(もちろん、ひとはひとりでは生きていけず、わたしたち家族のひとりひとりと関わってくれたすべてのひとたちに感謝です)
今、彼らはわたしたちのもとを巣立ち、それぞれの道を歩んでいます。離れて暮らし、見えない・知らない時間がある今、少ないけれど接点をもてたときは、今のわたしだからできることをしてあげたいと思っています。
そして、良かれと思ってしたこと・伝えたことを受け入れても受け入れなくても、選択し行動するのはいつだって彼らの自由であることを心から尊重したいです。
2021.2.26 母としての記録
手のひらにのる分
畑とのつき合い方を変えたら、ずいぶん楽になりました。
昨年は、自分たちでは食べきれないほど収穫でき、まわりのひとに配り歩いて、嬉しいけれど忙しさもついてきました。
今は家に野菜がなくなったら畑に行って、夫婦ふたりでちょうど食べきれる分だけ持って帰ります。
この間はブロッコリーが手のひらにのる分しかとれなかったけれど、それがとても気持ちの良いことだと気づけたのでした。
こういう「気づき」はヨガを伝えるうえでも波及します。
たくさんの人を相手に講座をひらくエネルギーがある人も世の中にはいらっしゃるけれど、
わたしはもともとそんなにエネルギーが強い方ではありません。だから、がんばりすぎるとダウンしてしまうことを今までの経験上知っています。
いちばん大切なのは本当の自分のことをよく知ること。
そのうえで、自分にちょうどいい活動をすることが長続きの秘訣だし、目の前に座って下さるひとに対しても真の意味で親切なんじゃないだろうかと思っています。
ヨガを伝えることは、カタチあるものを右から左へ動かすようなものではないから、とてもエネルギーを要します。
そのエネルギーはやっぱり愛からのものにしたいから。
わたしは今まで素晴らしい先生方に出会うことができ、本当に恵まれていたと思います。
どの先生もわたしが感謝を述べると、「ヨガやアーユルヴェーダの教えが素晴らしいからですよ」と答えてくれました。
そして、わたしの努力を認めてくださって、わたし自身と家族・友人という近い存在に教えを伝え、活かすように促してくださいました。
「100人に教えるよりも、たったひとりの友人に伝えることに価値がある」
これは、わたしのヨガの先生のひとりであるMark Whitwell先生が教えてくれたことのひとつです。
たとえグループのクラスになったとしても、同質のものが存在するように、指導者は心配りをしなければなりません。
わたしが自分の暮らしを中心に、近しい人々にヨガやアーユルヴェーダを伝えているのも、それが真実であることを実感しているからです。
目の前に座って下さる人がひとりであっても、そのひとのまわりにはたくさんのひとの存在があります。そのひとだけのようで、そのひとだけではないのです。
わたしは今53歳であり、大切に想う年老いた母がいて、春にはふたり目の孫も産まれます。ヨガの講師である前にひとりの人として、なにが本当に大切なのかをしみじみ考えて、エネルギーと時間を使う対象を選ぶ年齢になりました。
そういう意味では、不器用ながらも、すこしは生き方が軽やかになってきたのかも知れませんね。
「手のひらにのるぶん」
これはありとあらゆるシチュエーションで心に浮かぶ今のわたしの秤(はかり)です。
2021.2.13
おかえり ~指導者養成講座より~
初めて彼女に出会ってから、8年経つでしょうか。
彼女はわたしが籍を置いていたスタジオに生徒として通っていたけれど、言葉を交わし、互いを知り、いっしょにお茶を飲むようになり、今では何でも話せる友だちになりました。
わたしが自宅でヨガを伝えることにしたので、彼女は我が家に来てくれるように。その間隔は飛び飛びではあるものの、細く長く続き今に至ります。
あるとき、自らもヨガを伝える立場になりたいという彼女の気持ちを受け取り、さあ具体的に……と思った矢先、いくつかそうさせてもらえない状況が訪れました。
そのひとつにコロナのこともありますが、人生の中で起きるあれやこれやもあってのことでしょう。仕方がない時もあるものです。
2020年2月を最後に一度学びの流れは途絶えました。
わたしのなかにいつもある想いは[本人の意志]が大切だということ。
だから、あの時の意志が彼女の中に保持されているならば、きっと彼女から連絡が入るだろうと思っていました。彼女を信じていられたのは今までの関係性のおかげです。
彼女から連絡が入り、久しぶりに会話をした時、まずは近況を尋ねました。そして、彼女の意志が今でも変わりがないかという確認をしました。その気が失われていても、わたしが傷つくことはありません。本人がどうしたいのかが一番大切なのです。
彼女のこたえは「その意志はあるけれど、こんなに月日が空いてしまって、そのことをお尋ねしたかった」ということでした。
確かに、正直言って、どこまで伝えていたのか。。。一度離れてしまったがゆえに、はじめから取り組み直さなければ。。。という気がしました。
ですが、会えない間、彼女は人生の中で起きる波の中で、自分自身のヨガをお守りのように継続して、穏やかに暮らせていたということを聞き、何にも代えがたい大切なヨガの真髄はやっぱり彼女の中に生き続けていたんだと、安堵しました。
こうして、一年ぶりに彼女との指導者養成講座は再開しましたが、伝えるにあたり、わたし自身あらためて大切な学びに触れ直す作業をさせてもらえて、内側から生き生きとしたエネルギーが満ちてくるのを感じています。
世の中のRYT(全米ヨガアライアンス)と呼ばれる、今やヨガスタジオのための資金源のようにもなってしまったシステムはこの世にたくさんのヨガインストラクターを輩出しています。わたしのヨガの始まりもそうした講座でした。しかし、そのなかでもどんな先生や仲間に出逢えたかによりますし、その後もヨガを通して自己探究していくことはとても大切です。
ひとにアーサナ(ポーズ)の指示を与えるだけではなく、本当のヨガの効果を目の前の人にもたらせるように、「ヨガインストラクターではなくヨガティチャーになりなさい」とわたしはMark Whitwell先生やJ.Brown先生から教わりました。
わたしがひらいている指導者養成講座とは、わたしの教えることにただ右へ倣えしてもらうものではありません。目の前のひとの個性を尊重し、わたしの伝え方のほうを工夫します。ヨガの真髄にたどり着く道は人それぞれなのです。
彼女は一緒に暮らしている息子さんにヨガを伝えたいとのこと。そして、ご自身の妹さんの顔も頭の中に浮かんでいるようです。もう長い付き合いで、大切なことをじゅうぶん理解できているので、彼女には実際に教え始めてもらうことにしました。
「教えることは教えることでしか教わることはできません」これも、先生から教わったこと。
実際にひとに教えてみて、湧き起こってくる疑問について、ともに考え学んでいくこととします。
コロナウイルスが世界全体にもたらした影響を理由に、今できることを放棄してはならないとわたしは思います。わたしは生涯ヨガとアーユルヴェーダをまわりの人たちに伝えていきたいです。
そのために、今でもチャレンジしていることがあるし、わたしは成長できると知っています。年齢を重ねると、わたしの役割も変化するでしょう。それも楽しみです。そう、楽しみだと思えることは本当に幸せです。
みなさんもぜひ誰かのためにヨガを伝える人になってみませんか。いくつになってもあきらめないでくださいね。
こうして指導者養成講座のことを書いていると、いつも卒業生のみなさんの顔が心に浮かびます。今は会えていない人もいるけれど、いつも幸せを祈っています。
「あのとき、いっしょに学んだものをあなたの人生に役立ててください」
わたしに言えることはそれだけだし、これからも変わることはありません。
みなさんに心をこめて。
2021.1.26 のできごと
つらつらと 2021.1.19
ことばには力があります。
ことばを発するとき、それが音でも文字でも「愛」を添えたいものです。
そうは言っても、こころの中がいつも平穏であるとは限りません。それも紛れもない現実です。そんなときは「言わない」という選択もあります。
けれども、言わないことで内側に在るものがわたしたちを悶々とさせますね。
わたしの場合はヨガを通して、自分の本音をじっくり聞きます。日記を書くのもオススメです。
そうすると、相手やものごとに対して近目になってしまっていたことに気づき、アタマを冷ましてうまく距離感をはかれたり、そもそも一番なにが大切なのかということに戻れたりします。
自分では愛だと思っていても、相手を傷つけることもあるかも知れません。伝えたあとで、自分の言動を正当化したくなってしまうこともあるかも知れません。そんなときも見たくない・認めたくない自分の気持ちも観るようにしています。
最初は辛いかもしれません。でも、ちゃんと気づいていくと、魂は成長し、わたしたちは確実に楽になることができます。
生きていればいろいろありますね。後悔することもあります。でも、それらすべてが苦いけれど学びだと思います。
真正面から観ていくことが「きついな」と思ったら立ち止まってもいいんです。ひとりになるときがあってもいいと思います。私もそんな時期がありました。
でも、少しずつ自分のペースをつかめてきたら、ひとと関わることを放棄せずにいてほしいです。
ひとはひとと生きていくものだからです。
ときに、傷つけあうことがあったとしても、お互いに認め合って、赦し合って、ともに歩んでいけたらいいですね。そういう世の中であってほしいです。そのためには、まず一番近い存在である自分からはじめましょう。
ヨガは自分を理解することにも相手を理解することにも助けになってくれますよ。
2021.1.19
朝霧カタツムリからの手紙
「わたしを生きたい!」というあなたへ
今は便利な世の中で、スマホで検索すれば自分に必要な情報をすぐ手に入れることができますね。
例えば、エクササイズの動画。そのとき身体に余ったエネルギーを燃焼させてくれるかもしれません。でも、それらは一方的で、途中で切ろうと思えば何の遠慮もなく切ることもできます。飽きてしまえば、一生懸命にやったこともどこへやら、自分自身に身についたものが何にもなかったなんてことはありませんか。
あなたがほんとうに求めているものは何でしょう。ひょっとしたら、そのことを感知する感覚が鈍っているのかもしれません。今必要なことはもっと自分のいのちの感覚を育むことではないでしょうか。
新しい趣味に時間とエネルギーを費やし有意義に過ごしたようでも、本質的なものに気づいていなければ、わたしたちが真に満たされることはありません。何かの作品が完成しても、流行の新刊を読破してもおなじです。常に自分自身を満たす何かを探さなければならず、何かをクリアしても本質的に満たされることはないのです。
人生で同じパターンを繰り返していることに気づいたら、その気づきを大切にあなたのヨガを始めてみませんか。初心者のかたも、ヨガ経験者も大歓迎です。
新春企画として、マンツーマンのオンライン「カタツムリの1.2.3」をオープンします。春まで毎月1回90分の対話・ヨガセッションを行います。全3回の短期間受講・20,000円です(3名まで)★カタツムリの手紙つき
春に向けて、マイペースであなたの花を育てていきましょう。お待ちしておりますね。
2020.1.11
まことのことば
あけましておめでとうございます。
年の暮れ、年の始まり。年をまたぐときには、いろんな方々と「挨拶」が飛び交いますね。
ことばの根にはそのひとの想念・心・魂が宿り、ことばをあらわすとそのエネルギーは内側から外の世界へ伝わります。なにげないおしゃべりもその人をあらわしているし、手紙だって、SNSだってそうですね。
ことばが正直でなければ、自分の内側に在る本音とズレが生じ、相手ばかりではなく自分自身をも傷つけることになります。口にしたそばから居心地の悪さにソワソワしたり、後悔に苛まれたり......。
誤魔化しのある人には何の魅力も感じられません。いくら流行りの洋服に袖を通していても、メイクが上手でも。
本当の美しさとはだれも知らない・見ていない所で自分自身のいのちの花をひらかせているようなひとです。そういうひとには焦りも不安もありません。ときに、そういう事態に見舞われたとしても、自分が戻るべき場所をちゃんと知っています。
そういうひとにはおなじ波動を持つひとが集まるのです。類は友を呼ぶ、と昔から言いますね。本音で語り合えるひとといっしょにいると、お互いに響き合い、お互いを高め合うことができます。
本当の豊かさとは何であるかを自分のために知ろうとするのは自然なこと。ヨガやアーユルヴェーダはその助けになってくれるでしょう。
今年もみなさんにお会いできることを楽しみにしています。お待ちしておりますね。
2020 .1. 4
一文字で
2020年という年を漢字一文字であらわすとしたら、みなさんはどんな漢字が頭に浮かびますか?
そして、新しい年への抱負を漢字一文字であらわすとしたら、どうでしょう。
今までを振り返ると、わたしは「観」「知」「開」「養」「愛」「生」「深」などを選んできました。
今年は「環」という字が今の心境に合う感じがします。意味は「輪の形。めぐって端のないこと。まわりまわる。めぐる」とあります。
良いも悪いもこの世は端がなく繋がっていることを実感した年でしたし、わたし自身、未知の経験に翻弄されつつも、まわりまわってやっぱり「わたし」に戻ってこられたことから、この字を選びました。
2021年は「富」という一字を選びます。これはアーユルヴェーダの学びによっての深い気づきによるものです。
アーユルヴェーダのディ―パック・チョプラ先生の「富と宇宙と心の法則」という本のはしがきをここで紹介しましょう。
***(一部抜粋)
「富の意識」と聞いて、単なるお金儲けのことだと思われたなら、大間違いです。
この意識を身につけるには、人生を戦いではなく、自分の願望がすんなりとかなえられる素晴らしい冒険と考えられるようになることです。
さらには、どこにいても美しいものを見つけ出したり、いつも感謝の心を忘れずにいたり、出会う人すべてに心を開くことができなくてはならないのです。
富の意識とは、心の状態のことです。
***
わたしはアーユルヴェーダに出逢って、本当の富とはどういったものなのかについて意識を向けるようになっていきました。
ただただ怯えて暮らすだけではなく、まわりとの調和も大切にしながら、自分自身の知識を深めるためにチャレンジしたり、楽しむことを放棄しないで生きていきたいですね。
あなたの選んだ一文字もぜひ聞かせていただけると嬉しいです。
2020.12.27
母心
わたしのヨガのクラスには、よく母娘さんがお越しになられます。
お母さんが娘に伝えたいことを、ヨガを通して感じてもらいたいんだろうな。そんな気がしています。同性のうえ、距離が近すぎて伝えられないこともありますもんね。
自分探しで迷子中の女子中学生と、ヨガでなにか気づいてくれるといいなと願っているお母さん。
成人しひとりの女性として羽ばたかんとキラキラしている娘さんと、女性として大切なことを伝えていきたいお母さん。
自分自身のカラダの変化にそれぞれに向き合い始めた40代・70代の母娘さんはそれぞれに想い合っている感じです。
もちろん、お母さんだけじゃなく、お父さんの場合も。娘さんだけじゃなく、息子さんの場合もあります。
ひとの数だけ人生の生きたドラマがありますね。わたしはいつもみなさんのそばで胸が震えるような感動を頂いています。
ヨガクラスを通してほんのひととき、ご一緒させて頂くあいだ、その場の対話や空気をわたしなりに読み取って、みなさんにそのとき必要と思われることを、心を込めてお伝えしています。
ヨガやアーユルヴェーダを学ぶと、現実社会の教育で教わらなかったことをたくさん知ることができます。
教科書に書いてあることをいかに暗記し、あるラインをクリアできたとしても、「わたしたちはどうしてここに存在しているのか」「わたしたちの生命の中に脈々と受け継がれたものがいったい何であるのか」を感じさせてもらえるような教育には、残念ながらわたしたちは出会うこともなく、からだだけが成長し世の中に出ていくことを促されるのです。
(良い先生に出逢えたなら、それはとてもしあわせですね)
この写真はわたしの友人と娘さんのヨガのときのもの。幼稚園のスモッグ姿は遠い昔。今ではすっかり大人の女性です。
彼女は「友だちといっしょにいろんなヨガに行ったりもしたけど、すべては今日のためにあったような気がします」と言ってくれました。
彼女に伝えたのは、ヨガを通して自分自身と対話をすることでした。
この世でたったひとりの自分自身をあらためて「自分に一番近い生命」「いのちまるごと自分自身そのもの」として受け入れた時、この生きたエネルギーを「何に」「どんなふうに」使っていくのかということを投げかけたのでした。
彼女のまっすぐな瞳とはっきりした言葉から、ちゃんと大切なことが手渡せたことが分かって、じんとしました。
そう、みんな誰かの大切なひとなのです。この時の彼女はわたしの娘のようでもありました。
2020.12.21 冬至
(木星と土星がとても近くに在った日)
種
わたしたちは知らないまんまでいることが多くあるね。自分のいのちに関わることだというのに。
このドキュメンタリー映画では、地球上に存在する種の多様性を守らんとする「種の守り人」たちの生の言葉を聞くことができます。
~種は胎児だ。寿命がある。何十世代ものエネルギーが種子に注ぎ込まれている~(本編より)
なんてどきどきする言葉。「種は生きてる」ってことを感じるね。いや、実際、ゴマ粒より小さな種が立派なニンジンに育ってくれるのはミラクルでしかないからね。ニンジンの生命の設計図が種の中にあるってことがわかるんですよ。
ところが悲しいことに、もうすでに、この地球上の種の94%が消滅しているというんです。カボチャもスイカもアスパラガスもそれぞれにもっと多種多様だったのに、種類が激減しているのです。気候変動と大企業による種子市場独占が大きな要因だそう。
そのうえ、多くの国々で農家が自分たちで種子を保存し、翌年撒くことが禁止されるようになっているとのこと。そんなことってある? おかしくない? 自分たちの畑の作物から種をとって、次へ繋げるってごく自然のことだよね。
乱暴な力で自然のものを所有して、管理・操作するなんて、間違ってる。
このまんま無関心でいると、わたしたちが口にするもの、からだの一部にするものが不自然なものである可能性が高くなる一方だね。
わたしたち夫婦の小さな畑でさえ、なるべく自然農法でやろうとしていても、ちょっとしたところでむずかしさを感じているよ。種や苗の出所を疑わなくちゃならなかったりして、種の袋や苗のプレートを必死で見たりするもんね。それに、畑を管理して下さる方が良かれと思って近くに除草剤撒いたりね。
だけど、今クローバーに囲まれたこぼれ種のニンジンを目の前にすると、わたしたちはわたしたちの今できることをそれなりに納得いくようにするしかないと思える。
次はこのニンジンの花から種をとって次に繋げてみよう。種たちを今まで以上に観察もしてみたいな。今日はそんな気持ちにもさせてくれた映画の話でした。
2020.12.14
*写真はクローバーに囲まれた こぼれだねニンジン
関係性
今日、とてもひさしぶりにJ.Brown先生に会いました。画面越しだけれど、それがなにかを減らす要素にはなりませんでした。
なにかを「新しく学ぶ」とか、「学び直す」とかではなく、先生に会えて「ただ純粋にうれしかった」です。この感覚はしあわせ以外の何ものでもありません。
先生はわたしを見つけて名前を呼び、再会を心から喜んでくれました。
いつも正直で、自然体で、かっこうをつけずそのまんまでいてくれる先生。
(言葉にすると、聞きなれたヨガ台詞のようになってしまうのが惜しいぐらい)
彼がアメリカ人男性で、わたしが英語のできない日本女性であっても、心が通っているのには学びを土台とした先生と生徒の関係性が明らかにあるからです。
かつて、先生は「なおことはおなじ音楽を奏でているようだ」と言ってくれました。ギターで音楽の道も考えたことのある彼らしい表現で、おなじように感じていたわたしはしみじみ嬉しかったものです。
今日の講座を受けて、わたしはわたしの目の前の人たちに、「教わった通りに教えることができている」ことを再確認できました。
わたしはわたしの指導者養成講座を受けてくれた卒業生たちと会っていても会っていなくても、こころのなかでずっと想っています。
「ヨガの真髄はちゃんとあなたの中にあります。あなた自身を信じて、学んだことを自分自身のために生かしてください。そしてあなたがもし喜びを感じることができるなら、できる範囲で身近なひとに、心を込めて、あなたが教わったようにヨガを教えてあげてください」と。
(教えることが目的にならないように。教えなければならないわけではありません。)
今日はblogを通して、みなさんにこの言葉が届きますように。
2020.12.6
*写真はJ.Brown先生と。2019年夏。
距離感。
大切にしていることのひとつにこれがある。
距離感。
なんとなくわたしを受け入れてくれていることを感じてはいるけれど、距離を詰めたりしない。
相手を尊重し、私も尊重していれば、おなじ場にここちよくいることができる。
2020.12.2
* 写真はきんちゃん
今日という一日
今日という日をどんな一日にするかは、自分の手に委ねられています。
ヨガ講師であっても、わたしにだってだるい日はあるし、おしりに根が生えたように動きたくない日があります。
でも、面倒くさいと思うことを、とりあえずひとつ、そしてまたひとつ、とクリアしていくと、だんだん自分の中に芽生えてきた「動き」や「リズム」に助けられて、活動が始まっていきます。(とりあえずのひとつめがむずかしい笑)
今日もそうやって始まりました。「いつも通り」って肝です。「いつも通り」は安定した土台のようなもの。
「いつも通り」のなかに、今日でしか起きないできごとが混じり込んできます。だから、いつの日も唯一無二の日。
今日はわたしにっては、とても大切な姉のようなひとに、伝えたいことを伝えてみようという気になりました。彼女は自分の歩む道を決めていて、エネルギーのほとんどすべてを思うものに注いでいるのでした。ただ、自分自身を労わることを後回しどころか、どちらかというと一生懸命が故に、身を削りがちなことをわたしは知っていたのです。
ヨガクラスのあと、彼女に会いに行き、忙しいのは承知のうえで、オイルを使ったマッサージをさせてもらえないかお尋ねしました。
そうしたら、彼女はとても喜んで受け入れてくれました。おせっかいは今の時代、受け入れられない場合も多いかもしれません。
でも、距離感を大切にしながら、ときには大切な人に素直な想いを伝えて関わっていきたいなと思います。
でも、実はわたしだけじゃなく、彼女には他にも素敵なおせっかいをしてくれる人がたくさんいたようです。そして、おせっかいをありがたがって受け入れてくれるお姉さんは、やっぱりええひとやなと安心して帰路につきました。
今日という一日もほんとうに味わい深かった!
おやすみ、わたし。おやすみ、みんな。
2020.11.27.夜
* 写真はお嫁さんからもらったカランコエ
わたしたちは小さな活動家
わたしたちはどんなひとも活動家になれると思う。
世に知れた偉業を成し遂げたひととおなじように価値あることを、何気ない日常の中でできると思う。
朝早起きして、栄養を考えてお弁当を作ることも。
家族みんなの洋服やタオルを洗濯して干すことも。
宅急便の人にありがとうの言葉を忘れないことも。
たくさんとれた野菜をご縁あるひとにお裾分けすることも。
花の種を来年のためにとって、乾かしておくことも。
悪かったなあって思うことを素直に「ごめんね」と言うことも。
今日という一日を わたし自身と手の届く範囲の人たちのために大切に生きているということがすでにそういうこと。
自分が意識して、愛ある行動を選択できたという価値を自分自身が知っていれば、わたしたちは誰でもすばらしい活動家になれるでしょう。
2020.11.26
*写真はカマーラフールの看板猫シャンティ
決めること
畑をはじめたばかりの頃、新顔の私たち夫婦に、まわりの親切な先輩方がいろいろなノウハウを教えてくれました。
オットの田舎で畑仕事の経験があるとはいえ、自分たちで一から農作業をするのは初めてだったので、教えていただいたことを参考に野菜を作っていました。
ところが、わたしがやりたいのは自然農法。
化成肥料を使わず、マルチという黒いビニールで土の保温や保水をしたり雑草を抑制するのではなく、その辺に自然に生える草たちの力を借りて、野菜と共存させる方法を取りたかったのでした。
しかし、お世話になった先輩方の畑は草ひとつ生えていないし、野菜が綺麗に並んだ状態です。なので、私たちが「方向転換」するにはちょっぴり勇気が要りました。わたしたちが迷っている間は、なんとなく畑も中途半端な状態でした。
だけど、決めました! 思うように自由に実験してみようと。
畑から黒いビニールを取り去ったときの心地良さったらありませんでした。まさに大地が呼吸をしている感じ!わたしの呼吸まで深くなりました(笑)そして、畑じゅうにクローバーの種をたくさん蒔きました。
私たちの方向転換は誰の目にも明らかでした。まわりのひとたちはきっと驚いたに違いありません。でも、「決めた」ことはちゃんと人にも伝わります。とてもすっきりと! みなさんの温かい態度でそれがわかりました。結局、自分次第なんですね。
「決める」とものごとの方向性がはっきりして、あとは進んでいくだけ。これからが楽しみです。
2020.11.19
*写真は初めて種蒔きしたニンジン
ひとに触れること
アーユルヴェーダのシロアビヤンガを受けに、ある女性が来てくださいました。彼女はわたしの中学時代の親友の親友です。ここ数年、海のヨガに参加してくれたりして、少しずつですが、彼女に会うたびに、彼女自身のことを知ることになりました。きっと彼女もわたしのことを知ってくれたからこそ、今日が訪れたんだと思います。
わたしは何年もヨガを通して、目の前のひとたちと向き合ってはきたけれど、シロアビヤンガは直接そのひとの肌に触れるので、ヨガとはまた違った関わり合いが生まれるような気がしています。
わたしは、彼女に触れさせていただくことに対して、ありがとうの気持ちを込めて、手を動かし始めました。
彼女に触れているうち、彼女のお母さんのことがふいに心に浮かんできました。彼女は若いころにお母さんを亡くしておられるのです。
彼女の中に注がれたお母さんのいのちもいっしょに癒せるといいなと思いました。そして、彼女のお母さんはきっと、今、娘が自分自身を大切にしているのを喜んでくれているような気がしました。
施術後、今日の感謝とともに、その話をしたら、彼女の眼からぽろりと涙がこぼれました。母親の存在はやっぱり大きいですよね。
彼女にも娘さんがいるので、「お母さんてさ、自分の娘が自分のことを大切にしていたら、きっとうれしいと思うねん。だから、自分のことを大切にしてね」と話しました。
ひとに触れるって、ただ触るだけじゃない。とても深いものだなと思いました。「癒し」の効果を感じていただけるよう、このアプローチ法も大切にしていこう。
2020.11.16
※ 写真は母と訪れた太山寺の紅葉
みんなちがって、みんないい
わたしは子どもの頃から、「個性」というものにとても敏感でした。両親はそれぞれに自分の個性を自覚した人たちでしたし、わたしの個性も尊重してくれたので、その影響もあるでしょう。
だから「十人十色」という言葉は真実として、昔から好きです。その言葉に守られたかったのかもしれないですね。右に倣えをよしとする文化に対して、馴染めない感情を持っている自分を責めずにいられますから。
思春期は自分らしさをどう表現するのか、ずっと思案していました。「自分らしさ」ってなに? ずっと自問自答している面倒くさい子どもでしたし、自分で自分を持て余していたような気がします。
だから、人生の紆余曲折を経て、最終的にヨガに行き着いたのは、わたしのなかでは自然なことでした。気づくのがずいぶん遅くて、ハートは傷だらけでしたけれど(笑)
ヨガを学んでいくうちに「100人いたら100通りのヨガが存在する」というヨガの真髄(ハートオブヨガ)に触れたことで、わたしはまたひとつ楽になり、わたしを真に生きられるようになりました。
「自分を生きる」と言っても、社会の一員として秩序やルールはもちろん必要ですし、それらを否定しているのではありません。ただ、一律なものの中に、自らの生命をぎゅうぎゅうと無理やり詰め込むような生き方ではなく、現実の暮らしのなかに在りながらも、自分の生命と語らい、なにかを選択したり、行動することは必要なことですね。
自分に合ったヨガを通して、自分自身の正直な声を聞くようになると、ハートが満たされていきます。
そうすると、だんだんと他の人の在り方も認められるようになるからふしぎなものです。
みんなちがって、みんないい。 そんな感覚が訪れると、ほんとうに楽で気持ちいいですよ。
2020.11.2
言霊はじめ
このスタンプはわたしが消しゴムで作りました。
作るとき、カタツムリの殻が 右巻きか 左巻きかを考えたんだか、考えなかったんだか
もう忘れてしまうぐらい
わたしのヨガの始まりは 遠い過去のことになりました。
実際には 右巻きのカタツムリも
左巻きのカタツムリも存在します。
この世のカタツムリは すべておおきな宇宙の営みの一部として、自分の意思とは関係なく、それぞれに右巻きであり、左巻きです。
カタツムリというふしぎで繊細でかわいらしい生きものの名前を借りて、わたしはヨガの場をひらいてきました。
2020年の秋、わたしとみなさんの活動が満9年を迎え、10年目はくるんとかえって新たな始まりのゼロ年として、友人である小林樹枝さんにホームページのデザインを依頼しました。
彼女はわたしとおなじヨガの先生から、「生」に対する大切なエッセンスを受け取った仲間であり、彼女の家族の あるエピソードがわたしをヨガの真髄へと導いてくれたのでした。
樹枝さんからホームページを受け取ったとき、この言霊のページにわたしのスタンプを置いていてくれたので、そのまんま思いをはせて言霊にしてみました。
樹枝さん、アナログなわたしに根気よく付き合ってくれて、ありがとう。あなたの思いやりと素晴らしい仕事に心から感謝します。
もし、この頁をめくって下さったあなたが彼女に仕事を依頼したい場合、わたしのホーム画面の下にあるlife web design Kie Kobayashi
の連絡先を辿って下さい。
2020.10.27